平成29年度の発掘調査

更新日:2021年12月15日

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見付山東遺跡

調査地について

見付山東遺跡は、西側から下る千里丘陵の裾部にあたる低位段丘上に位置し、これまで奈良時代から平安時代にかけての掘立柱建物や井戸などの遺構、鎌倉時代の集落跡などが出土していることで知られていました。今回の本発掘調査の結果、鎌倉時代ごろの土器などが見つかり、当該地まで見付山東遺跡の範囲が広がることが確認できました。

調査区内の地層

調査区の基本層序は、1.現代の耕作土層、2.耕作地造成のための置き土層、3.灰色粘質シルトの遺物包含層、4.灰白色粘土の地山層です。4.までは、現地表面より50センチ程度と比較的浅いところで遺跡がみつかりました。

調査の概要

調査区全体より約300基の遺構が検出されました。また、昔の人が使った土器などの遺物も鎌倉時代のものを中心に、コンテナ4箱分が出土しました。

調査区の中央部やや南側に2基の井戸跡を確認しました。どちらも遺構を確認した面から、3メートル近く掘りこんで作られていました。井戸の中からは、鎌倉時代に多く作られた瓦器といった表面がいぶされて灰黒色をした土器などが出土していることから、井戸は鎌倉時代ごろに使用され、埋まったと考えられます。また、木で作られた下駄も出土しています。鼻緒を指す穴が三か所、歯が二本の下駄です。7~800年前の下駄も今の下駄の形状とそれほど変わりませんね。

そのほか、建物を構成すると考えられる柱穴の痕跡を多く確認しました。調査区の外に柱列が伸びるものが多いと考えられ、建物の配置を想定するにはいたりませんが、建て替え等を想定しても、柱穴の密度から多くの建物が建っていたと考えられます。また、中には、柱穴の底に瓦を敷き、地盤補強をしているものも見られました。

まとめ

見付山東遺跡の近くには、古墳時代や奈良~平安時代の遺跡、または近世の街道など多様な遺跡が知られています。古墳を造営した人々や、古代の豪族や役人が生活したり、はたまた江戸時代に大坂へ行く人などがこの近辺を往来したりしていたはずです。そのような中、今回の調査で出土した遺物は、主に鎌倉時代のものばかりで、他の時代の生活を想定させる遺物はありませんでした。このことから、この調査区を含む小さな地域が、鎌倉時代ごろに開発され、その後遺棄された、もしくはその後の痕跡が近現代の耕作により壊されたことが想定されます。

 

見付山東遺跡写真1

足場を組んで調査区を南から撮影しました。

見付山東遺跡2

井戸跡をまわりの土も含めて真っ二つに断ち割った写真です。

穂積廃寺跡

調査地について

穂積廃寺跡は千里丘陵から延びる低位段丘上に位置し、上穂積二丁目、上穂積三丁目にかけて東西240m、南北390mの範囲に広がっています。

調査の概要

今回の発掘調査では、現在の地表から1.1mの深さで、掘立柱建物4棟を確認することができました。柱穴の規模と隅丸方形という平面形から、奈良時代頃の建物と考えられます。特に建物1・2・4は総柱であることと、軸を同じくするものが等間隔に並ぶことから、高床式の倉庫であった可能性があります。

まとめ

周辺では、穂積廃寺跡や見付山東遺跡・郡遺跡などの調査で、この時期の掘立柱建物が多数確認されています。今回の成果によって、未だ中心伽藍が確認されていない穂積廃寺周辺の奈良時代の様相を知る上で新たな成果を付け加えることができました。

 

穂積廃寺跡建物跡1

柱が整然と並んでいます。奈良時代の人は几帳面なんでしょうか。

穂積廃寺跡建物2

奈良時代の人はバブリーなのでしょうか。それとも見栄っ張りなのでしょうか。

柱を据える穴がどれも大きいです。

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