平成28年度の発掘調査

更新日:2021年12月15日

ページID: 40812

倍賀遺跡の発掘調査

調査地について

倍賀遺跡は茨木市の市街地を南北に流れていた元茨木川の西岸に位置し、春日神社を中心に東西約600m・南北約390mの範囲(春日四丁目・五丁目、西田中町)に広がっています。今回の調査では、共同住宅の建設に伴って、平成28年10月~11月にかけて遺跡の南東部で実施しました。以前に調査地の西側で行われた発掘調査では、弥生時代後期の溝・柱穴、古墳時代中期~後期の溝・土坑・柱穴など多数の遺構が見つかっています。

調査の概要

調査では、現在の地表から1.15m~1.3mの深さで弥生時代中期(約2,000年前)~古墳時代中期(約1,500年前)にかけての遺構を検出しました。その内、特筆すべきものとして、地面を掘りくぼめて屋根をかける竪穴住居1棟、複数の柱穴から構成される掘立柱建物、平面形状が弧を描いくことから、古墳となる可能性がある溝を検出したことなどが挙げられます。

竪穴住居跡は、一辺3.5m程度の方形になると思われます。屋根を支える柱穴は3基確認しました。その形状から弥生時代後期(約1,800年前)~古墳時代前期(約1,700年前)頃に建てられたものと考えられます。

掘立柱建物の柱穴は直径30cm程度と、直径70cm程度を測るものがあります。特に直径70cm程度のものには、深さ約60cmを測るものもあります。現時点で5棟を復元していますが、調査範囲が限られており、建物として復元できなかった柱穴もあることから、本来はより多くの建物が存在したと考えられます。ただし、新しい柱穴が古い柱穴を壊しているものや復元した建物が重複するものもあるため、全てが同時に存在したのではなく、建て替えが行われたようです。柱穴から古墳時代中期の土器が出土していることから、この時期の建物と考えられます。

溝は弧を描きながら南北方向に延びていますが、調査区外に続いているため、全体の形状は不明です。しかし、直径16m程度の円形になる可能性があります。その形状から古墳の周溝となる可能性も考えられます。

まとめ

今回の調査では、調査区全面で弥生時代から古墳時代の遺構を確認しました。時期が途切れずに連続している訳ではないですが、時期を追って竪穴住居から掘立柱建物へと建物の形が変化することが窺えます。また、墓の可能性がある溝も確認しており、居住域から墓域への変遷を追える可能性があります。

倍賀遺跡1

調査区北半部(南から)

倍賀遺跡2

調査区南半部(南から)

春日遺跡の発掘調査

調査地について

春日遺跡は千里丘陵から延びる低位段丘上に位置し、上穂積一丁目、上穂東町、中穂積一丁目、春日一丁目、二丁目、三丁目にかけての東西約750m・南北約600mの範囲に広がっています。今回の調査では、店舗付共同住宅の建設に伴って、平成29年3月に遺跡の南部で実施しました。周辺は遺構の残りが良い場所で、これまでの調査では、古墳時代(約1,500年前)~中世(約700年前)にかけての遺構が見つかっています。

調査の概要

調査では、現在の地表から1.1mの深さで古墳時代中期~中世にかけての遺構を検出しました。その内、特筆すべきものとして、調査区の中央で検出した古墳が挙げられます。平面形状は直径10m程度の円形です。北側の一部は擁壁の影響で確認することができませんでしたが、ほぼ全体の様子を窺うことができます。亡くなった人を葬った箇所は残っておらず、深さ50~60cmを周溝のみを検出しました。溝の中からは古墳の周囲に立て並べられていた円筒埴輪や土器が見つかりました。特に溝の南西側では、須恵器の高杯に杯身を蓋のようにかぶせた状態のものが見つかりました。元々は高杯の中に何かを入れて溝の中に置いていたものが、溝が埋没する過程で転倒したものと考えられます。埋葬に伴う儀礼の一端を窺うことができます。土器の年代から古墳時代中期後半(約1,500年前)に造られた古墳と考えられます。

まとめ

今回の調査では、古墳1基を検出することができました。春日遺跡内ではこれまでに遺跡範囲の西側で複数の古墳が検出されています。しかし、いずれも部分的に確認できたものであり、古墳の形状の全体が把握できた今回の調査は、貴重な例となりました。

春日遺跡1

完掘全景写真(北から)

春日遺跡2

古墳の周溝からほぼ完全な形で出土しました。

この記事に関するお問い合わせ先


茨木市 教育総務部 歴史文化財課
〒567-8505
大阪府茨木市駅前三丁目8番13号
茨木市役所南館6階
電話:072-620-1686
ファックス:072-620-6100 
E-mail rekibun@city.ibaraki.lg.jp
歴史文化財課のメールフォームはこちらから