広報いばらき

川端康成と茨木

日本人初のノーベル文学賞受賞作家で本市名誉市民である川端康成と茨木とのかかわりについて紹介します。問合先、川端康成文学館 電話625-5978

川端康成のお受験

 3月に入り受験シーズンも終盤を迎えましたが、今回は川端康成の「お受験」をめぐるエピソードをご紹介します。

 旧制茨木中学校(現茨木高校)を受験したときには、あまり手ごたえを感じていなかったのでしょうか、成績順に貼り出された合格発表の下のほうばかりを見て、名前がなかったために不合格と思い、家に帰ろうとしたそうです。ところが、友人から「合格おめでとう」と声をかけられ、急いで戻り見直してみると、一番上に名前が載っていました。不合格どころか、トップ合格だったというわけです。

 入学後は文学に熱中し過ぎて、成績はずるずると下がっていきました。授業はそっちのけで本を読んだり、雑誌に投稿するための原稿を書いたりしていたので無理もありません。大正4年(1915)、中学4年生(現在の高校1年)のときの日記には、こんな記述があります。「成績表もらう。もう何もかも駄目の点。中にも作文が七十二〜一学期二学期は日誌を出さず作文も出さなかったからだろうか〜なんて皆に対して甚だ残念な事である」

 文学館には卒業時の成績表が展示されていますが、総合評価は学年88人中35番で、中の上といったところです。意外なのは作文の点が最低で53点、学年全体でもビリから3番目だったというから驚きです。入学時はトップだった康成にしてみれば、学校の成績なんて関係ないさ、というポーズをとりながらも、先生や同級生から見下されているように感じ、相当悔しい思いをしたようです。

 そこで、周囲を見返してやろうと思いついたのが、最難関である東京の旧制第一高等学校(現東京大学)を受験することでした。中学の先生方からは「お前の成績では絶対に無理」と反対されましたが、それを押し切って受験。すると、茨木中学から受験したなかで、康成がただ一人見事に現役で合格という意外な結果に。

 やればできる子、康成。というか、いったいどれだけ学校の勉強をさぼっていたんでしょう……。受験勉強で発揮されたであろう集中力が、作家としての成功にもつながったということでしょうか。