広報いばらき

川端康成と茨木

日本人初のノーベル文学賞受賞作家で本市名誉市民である川端康成と茨木とのかかわりについて紹介します。問合先、川端康成文学館 電話625-5978

川端康成と雪国

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった—言わずと知れた川端康成の代表作『雪国』の冒頭ですが、発表当初この一文は存在しなかった、と言ったら驚かれる方もいるのではないでしょうか。

 『雪国』の第1章に当たる「夕景色の鏡」は、雑誌「文芸春秋」の昭和10年(1935年)1月号に掲載されました。その後は、短編連作のかたちで複数の雑誌に発表され、7編目の「手毬歌」までをまとめて昭和12年に刊行されたのが、『雪国』の初版本です。単行本化に当たって、雑誌に発表された本文には大幅に手が加えられました。冒頭の一文はこのとき書き加えられたものです。

 その後も連作は続き、一応の完結を見たのは昭和22年(1947年)、その翌年に決定版『雪国』が刊行されます。このときにも本文にかなりの変更がありましたが、その後も全集に収められるたびに手が加えられ、定本が刊行されたのは昭和46年(1971年)、康成が亡くなる前年のことでした。

 昭和47年4月に康成が亡くなったあと、書斎にあった手文庫のなかから、『雪国抄』と題された和綴じの冊子が2冊発見されました。そこには、『雪国』冒頭の3章をさらに書き改めた本文が毛筆で記されていました。「以上二冊 昭和四十七年一月二月書く 康成」の奥書からは、康成が死の直前までこの作品にこだわり、理想の完成形を追い求めていたことがうかがえます。

 新潮社版『川端康成全集』の第24巻には、雑誌発表当時の本文が『雪国(プレオリジナル)』として、『雪国抄』とともに掲載されています。『雪国』の世界がどのように変化していったか、読み比べてみるのも一興です。