広報いばらき

川端康成と茨木

日本人初のノーベル文学賞受賞作家で本市名誉市民である川端康成と茨木とのかかわりについて紹介します。問合先、川端康成文学館 電話625-5978

川端康成のノーベル賞授賞式

 10月にノーベル賞各部門の受賞者が発表されました。今年は文学賞の発表が見送られるという異例の事態となりましたが、日本は本庶 佑氏の生理学・医学賞の受賞で大いに盛り上がりました。ノーベル賞の授賞式は、創設者であるアルフレッド・ノーベルの命日にあたる12月10日にスウェーデンの首都ストックホルム(平和賞のみノルウェーのオスロ)で行われます。そこで今回は、昭和43年(1968年)の授賞式に出席した際の川端康成についてご紹介します。

 10月17日の受賞決定の知らせから1か月半後の12月3日、康成は日本を出発し、6日にストックホルム着、翌日から関連行事への出席が続きます。コンサートホールで行われる授賞式は、スウェーデン国王も臨席する格式の高い公式行事で、出席する男性は燕尾服、女性はイブニングドレスの着用が求められますが、康成は和服の正装である紋付袴姿で臨みました。この時着用した羽織・袴は、山繭から採取した天蚕糸を用いた絹で仕立てられたもので、康成と親交のあった日本舞踊の名古屋西川流家元・二世西川鯉三郎から贈られた品でした。また、首には昭和36年(1961年)に受章した文化勲章を懸けていますが、当日の写真をよく見ると、裏返しになっていることがわかります。

 12日にはスウェーデン・アカデミーで記念講演「美しい日本の私−その序説」を行いました。康成は出発前から草稿の準備を始めていましたが、当日の朝になっても完成せず、通訳を務めるエドワード・サイデンステッカーをやきもきさせたそうです。連日の行事に執筆の疲れが加わったこともあってか、康成は翌13日の夜から15日まで、30時間以上も眠り続けたといいます。ストックホルムでの諸行事を終えた康成は、秀子夫人らとともにヨーロッパ各地を訪問、帰国したのは翌44年1月6日のことでした。

 先日、昭和40年(1965年)に谷崎潤一郎と康成の同時授賞の可能性が検討されていたと報道され話題となりました。ノーベル賞選考時の議事録は、賞の決定から50年が経過すると公開されるため、年明け早々にも康成受賞時の選考過程が明らかになります。興味津々ですね。