広報いばらき

市史編さん室だより

費用の記載がない場合は参加無料。定員・申込などの記載がない場合は事前申込不要または当日直接会場へ。

其ノ35

問合先、市史編さん室 電話622-2184

町長と市長の間

 戦前の茨木町の田村正雄町長と、戦後の茨木市の田村英市長が、兄弟であることをご存じでしょうか。

 2人は三島村鮎川の生まれで、茨木で医院を開業していた弟の正雄は、医者としての評判も高く、第二次世界大戦末期に茨木町長に就任。終戦という難局を乗り切り、昭和20年(1945年)11月に辞職しました。一方、兄の英は中学校卒業後、海軍に入隊し、終戦時は山口県にあった光海軍工廠(軍事工場)の工廠長を務めていました。戦後茨木に戻った兄は、市制施行後の市政の混迷からの脱却を託され、昭和30年(1955年)に第3代茨木市長に当選。阿武山原子炉設置反対運動などで市民の先頭に立ち、2期8年の任期を全うしました。

 町長と市長を務めたこの2人の間には、実はもう1人兄弟がいました。その兄弟・田村光三は、茨木中学を経て水産講習所(現在の東京海洋大学)に進み、在学中にアメリカに留学。卒業後は、中学と講習所の先輩である高碕達之助が始めた東洋製罐に入社し、ニューヨークで缶詰材料となる鉄の購入に携わっていました。

 昭和14年(1939年)、その光三のもとに、アメリカでの取引先のユダヤ系実業家から、ナチスに迫害されドイツ国外で難民化しているユダヤ人30,000人を日本で受け入れられないか、という話が持ちかけられました。光三が早速この話を外務省や陸海軍に伝えると、外務省などでは「田村工作省内協議会」を設置し検討しましたが、結局は陸軍などの反対で実現できませんでした。戦時中であったため、光三はその後、親米を疑われ憲兵隊の厳重な監視下に置かれていたということです。

 もしユダヤ人の受け入れが実現していたら、光三は杉原千畝などと並び、ユダヤ人救済の英雄として歴史に名を残していたかもしれません。