広報いばらき

特集 そして夏がくる 戦後70年

 昭和20年(1945年)8月15日。この日、日本は終戦を迎えた。

 時がたち、戦争の時代が遠くなる一方で、今もなお忘れられない記憶がある。

 あの夏から70年。戦争の記憶と、その継承の「今」をたどる。

戦争が落とした影

多数の犠牲者を出した戦争

 多くの国を巻き込み、世界中で未曾有の犠牲者を出した第二次世界大戦。その開戦前から中華民国(中国)との間で交戦状態にあった日本ですが、昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃をもって、大戦の場に加わりました。

 その後、次第に戦況は悪化していきます。そして、昭和20年、沖縄での民間人を巻き込んだ壮絶な地上戦、東京をはじめとする都市部への大空襲などを経て、同年8月に広島・長崎へ原爆が投下され、日本はその数日後に終戦を迎えることとなります。

 一連の戦争を通じた日本の死者は300万人を超すとも言われ、その後の国民生活に長きにわたり暗い影を落とし続けました。

遺品からたどる父の足跡

市戦没者遺族会員 木村英和さん(77) 終戦当時8歳

 父が戦死したのは、日中戦争のさなかの昭和15年(1940年)1月。33歳でした。まだ太平洋戦争が始まる前だったので、かなり早い時期での戦死者だったと思います。父が出征したのは私が生まれて間もなくのことでしたし、亡くなったときも2歳半でしたから、父の記憶はほとんどありません。ただ、戦地からは定期的にハガキが届いていて、母はそれらをきちんと保管していました。父の戦死の知らせを聞いたとき、母は「霊前に供えてほしい」と自分の髪を現地に送ったそうです。

 父が亡くなったあと、遺骨をはじめ、軍服や軍隊手帳などが戻ってきました。多くの戦死者、特に終戦間際に戦死した人は、遺骨も遺品もなく、それどころかどこで亡くなったのかさえ分からない場合がほとんどであったことを考えると、私たちは恵まれていたのだと思います。おそらく、戦況がまだ悪化しておらず、遺品を届ける余裕があった時期だったのでしょう。

 母が亡くなって、タンスを整理していると、それらの遺品が出てきました。父がどのように亡くなったのかは、その中にあった軍隊手帳で知ることができました。通信兵だった父は、敵に自分の部隊が囲まれた際、離れたところにいた味方に応援を求めに行き、その帰りに銃で撃たれたそうです。おそらく即死だったと思いますが、遺骨が戻ってきたということは、撃たれた場所から父の体を部隊に戻してくれた人がいたのでしょうね。父の遺骨を持って帰ってくれた人なら詳しい状況を知っていたかもしれませんが、その人も再び戦場へ行き、戦死したと聞きました。私の父もそうだったのですが、あのころは一度故郷に戻っても再び戦地に呼び出されることがあったようです。

 戦争や故人の記憶は、深く関わった人ほどつらいものです。私もほかの遺族や戦争体験者の話を聞いたことがありますが、中には耳をふさぎたくなる話もありました。聞くだけでむごいと感じる、戦争とはそんなものなのです。

茨木への空襲

 戦争末期、国内の多くの都市が戦火に巻き込まれた。

 それは、茨木も例外ではなかった。

 昭和20年、終戦間近のその夏に、真砂・玉島・春日の3地区を空からの爆弾と機銃掃射が襲う。その攻撃は、人々の命を容赦なく奪った。

 当時を知る2人に、その記憶を語っていただいた。

70年たっても忘れられない

大槻種男さん(79) 当時9歳

 あの日、空襲警報が鳴ったとき、父は私に「家の防空壕ではなく、警防団の壕へ入っておけ」と言いました。警防団の壕は西方寺(真砂一丁目)の南側の竹やぶに掘ってあって、個人宅の壕より大きくて頑丈でした。私はそこに姉2人と入ったのですが、父は外の様子を見るために壕には入らなかった。そこへ爆弾が落ちたのです。壕全体が、地震が起こったかのように大きくゴオッと揺れて、土煙で辺りが一瞬薄暗くなりました。揺れが収まって息をすると、口に入ってくる空気が油臭いんです。姉が持ってきてくれた水を飲むまで、本当に油を飲み込んだように口の中がねばついていました。

 外に出ると、さっきまで目の前にあった西方寺がぺしゃんこになっているのです。父の姿は見当たらず、近所の人に聞くと「爆弾が落ちる前までいっしょにいたが、違う方向に行った」という答えでした。後で知ったのですが、父は爆弾の破片で足を大きくえぐられ、西田さんの家に担ぎ込まれていたそうです。出血がひどく、畳が父の血で染まったと聞きました。

 病院には空きがなくて、父は養精国民学校(現養精中学校)に運ばれ治療を受けました。でも、なにぶん戦争中で薬が足りない。母と姉が看病しましたが、結局父は7月9日に亡くなりました。今であれば助かっていたでしょうが、当時の状況では、仕方のないことだったと思います。

 父が亡くなった9日は、玉島に空襲があった日でした。

 父の遺体を引き取りに学校まで行ったところで、空襲警報が鳴った。防空壕のない場所だったから、急いで教室に入り、頭を抱えて伏せました。すると、戦闘機が飛んでくる音、そして、機銃を撃つ音が聞こえたのです。バラバラッと、まるで雨が打ちつけるような音でした。その戦闘機が、玉島のほうでも機銃掃射を行っていたのです。

 真砂の空襲では、30人以上が犠牲になりました。遺体を並べていた光景が目に焼きついて、戦争が終わってもその場所の前を通るのが恐ろしかった。70年たっても、忘れることができません。

戦時下の茨木は…

 ほかの地域と同じく、訓練や勤労動員など、戦争の影響が生活全般に及んでいた。

昭和20年 空襲の被害
6月26日
現在の真砂一丁目西方寺付近に1トン爆弾3発、500キロ爆弾2発投下。死者32人、重軽傷者7人という、茨木最大の被害を出す
7月9日
玉島二丁目付近と玉島尋常小学校へ機銃掃射。校舎内に避難していた児童2人が犠牲になり、5人が重軽傷
7月19日
茨木高等女学校校舎へ機銃掃射。付近の民家への流れ弾で1人が亡くなる

あんな馬鹿なこと、二度としたらいかん

西田善一さん(90) 当時20歳

 真砂に空襲があった昭和20年、私は福島県にいました。1月に東京の部隊に入隊したのですが、3月の東京大空襲で軍の建物がやられてしまい、福島へ疎開していたのです。当時は電話なんて使えなかったから、6月26日の空襲の知らせを聞いたのは1か月後のことでした。同級生の家族が全滅した、何人も死んだということは分かったのですが、結局、戦争が終わって帰還するまで、詳しいことは分からずじまいでした。故郷に帰って、さすがに驚きましたよ。お寺が潰れていて、家も何軒もなくなっていたのですから。当時の状況では、爆弾が落ちた状態のまま放置せざるを得なかったのでしょう。後日家族に聞いたところ、真砂のあとも市内で立て続けに空襲があって、次はどこかと生きた心地がしなかったと。それでも家はここしかないから、戦々恐々としながらも田んぼの世話を続けたと、そう言っていました。防空壕の中で死んだ家族もいたので、どこにいても攻撃されれば同じだと考えていた人が多かったようです。

 戦争中の茨木は、防空訓練はしていたものの、穏やかで安全とされた地域でした。実際、西方寺には疎開してきた人たちがたくさんいて、空襲警報が鳴ったときも「大丈夫や、こんなに大きいお寺なんやから」と防空壕に入らなかった人が多かったとも聞きます。まさか本当に爆弾を落とされるなんて、思ってもいなかったのでしょうね。

 出征した私が無事に帰ってきて、疎開していた人がやられるなんて、当時は考えもしませんでした。時代が時代でしたから、いつ死ぬか、何で死ぬかなんて分からない。それでも、小さな子を残して死んだ人、わが子を失った人のことを考えると、その無念ははかりしれません。

 戦後、相手との圧倒的な戦力差を知って驚きました。そもそも戦争なんかするべきではなかったのです。あんな馬鹿なこと、二度としたらいけません。

記憶を継ぐ

 戦争の体験も、平和を守りたいという思いも、何もしなければ、薄れ、消えてゆく。

 どれほどの時が過ぎようとも、忘れてはならない記憶。

 それを継ぐのは、私たち次の世代。

平和の尊さを胸に

 流れ行く時を止めることはできません。しかし、その時代を生きた人たちの記憶を伝えていくことはできます。

 5月から6月にかけて、市内の多くの小学校が広島へ修学旅行に出かけました。旅立つ前に、それぞれの学校で平和学習が行われました。自分たちで学習したことを報告会で発表した子、ボランティアによる平和の絵本の読み聞かせに耳を傾けた子、そして戦争体験者の話に真剣に聞き入った子。学校によって学んだ形は違えど、子どもたち一人ひとりが、その胸に平和の尊さを刻んだはずです。

 また、昨年度には、市も加盟する日本非核宣言自治体協議会主催の「親子記者」に本市在住の親子が選ばれ、長崎で戦争についての聞き取り取材を行いました。そのように、戦争を知る世代の声と、それを受け取る若い世代とのつながりを作る機会が、今、必要とされています。

 本市は昭和59年(1984年)に「非核平和都市宣言」を行い、核のない世界と、恒久平和をめざすことを宣言しました。そのための取組みの一つが、終戦記念日にさきがけて開催する非核平和展(「トピックス」のページ参照)です。同展では、市原爆被害者の会の会員による「非核平和の語り」や戦時中の写真などのパネル展示を行っており、戦争の悲惨さと平和の尊さを広く訴えています。また、7月11日には市文化振興財団による特攻隊を描いたコンサートドラマ「ピアノのはなし」も開催する予定です(同財団の問合先は「イベント」のページ参照)。

70年目の夏

 終戦の夏から70年。普段の生活の中で、私たちが戦争の爪あとを意識する機会はあまりありません。しかし、戦争によって人々の暮らしは壊され、言い尽くせない悲しみが残りました。その事実は重く、時に目を背けてしまうこともあるでしょう。ですが、戦争の惨禍を忘れることは、平和の価値を忘れることです。戦争の記憶に真摯に向き合い、それを引き継ぐことが、今を生きる私たちの役目です。

 今年もまた、夏が巡ってきます。それは、70年の思いが積み重なった夏。その夏に、平和のバトンを受け取って走り出すのは、私たちです。

 問合先 人権・男女共生課 電話622-6613

若い世代の声

長崎での親子記者に応募

切山美樹さん(38) 亮太さん(10)

美樹さん 子どもと一緒に平和について学び、思いを共有したくて親子記者に応募しました。取材を通して、当時の悲惨な状況は、文字や映像だけでは伝わりきらないものだと実感しました。戦争を伝える声から目をそらさず、一人ひとりが自分なりに考えていけば、そこから平和の輪が広がるのではないでしょうか。これからは、今回感じたことや学んだことを、周りの人に伝えていきたいです。

亮太さん 長崎で一番印象に残ったのは、被爆した人の話です。大きなキノコ雲のことや熱くて死にそうだったことを聞いて、原爆の怖さを感じました。今の日本は平和だけど、戦争のある時代を生きていた人たちはとてもつらかっただろうなと思います。新聞を作るのは初めてだったけど、いろんなことが学べてよかったです。

三島小学校6年生

小西里奈さん(11)

 三島小学校では、毎年「ピースアクション」を行っています。これは、戦争と平和についてそれぞれの学年で学んだことをみんなの前で発表する取組みです。低学年の時は平和の大切さを学ぶことが中心で、内容もやさしいものでしたが、学年が上がるにつれ戦争中のできごとを具体的に学ぶようになり、改めて戦争の恐ろしさを感じるようになりました。特に、6年生は広島での修学旅行で学んだことを発表しますが、クラスの中では「あんなにひどいとは思わなかった」「怖かった」という感想が多かったです。

 原爆ドームについて調べたとき、戦争のあと、「見るとつらいから」という理由でドームを取り壊す案があったと知りました。でも、次の世代が平和について考えるきっかけにしてほしいと残すことにしたそうです。私は、ドームが保存されてよかったと思いました。実物を見れば、戦争は本当にいけないことだと感じることができるからです。大人になっても、平和を大切に思う心を忘れずにいたいです。

市原爆被害者の会

会長 岩本賢三さん(69)

 市原爆被害者の会は府内で最初に発足した被害者の会で、今年で58年目を迎えます。会員数は現在135人。平均年齢は約80歳になります。

 私は胎内被爆者なので、会員の中では最も若い世代です。原爆が落ちた日、広島にいた父を心配した母が市内に入って被爆し、お腹の中にいた私も被爆しました。両親は原爆の話をほとんどしませんでしたが、父の体からは終戦後10年たってもガラス片が出てきたことを覚えています。

 今、会としてやろうとしていることがあります。それは、戦争体験を若い世代にできる限り語り継ぐこと。それも、できれば生の声を子どもたちに聞いてほしい。年々、それができる人たちの数は減っています。限られた時間の中で一人でも多くの子どもたちに記憶を伝えるために、市内の小・中学校などで「語り部」の活動を広めています。

 被爆者の中には、自分が被爆したことを子どもにも伝えていない人が多くいます。自覚することで当時の記憶が生々しく呼び起こされるからです。私自身、40歳を過ぎるまで誰にも被爆したことを話せずにいました。しかし、被爆時の凄惨な状況やつらい思い出、苦しい思い出から目を背けることなく、こんなことが二度とあってほしくないと次の世代に語り継いでいくことが、私たちにできる唯一のことだと痛感しています。私たちの会の意義は、戦争の残酷さ、愚かさを発信し続けること。そのためにも、多くの小・中学校で「語り部」の機会を与えていただきたいと思います。

 「語り部」についての問合先 岩本 電話621-1766