茨木市政のこれまで、そしてこれから ~元茨木市長 山本末男さんに聴く~

〈元茨木市長 山本末男氏に聴く〉

対談要旨

茨木市の初代市長から歴代市長を支え続け、自らも市長として3期務められた「山本 末男」氏が、茨木市が「赤字転落」から「赤字財政全額解消」に至るまでの苦境の時代を中心に、職員時代や市長時代の苦労話やこれからの市政運営についてのご意見を頂戴しました。 

椅子に腰掛けて話す、元市長の山本末男さん
椅子に腰掛けて話す茨木市長

まとめ

  • 健全な財政運営のためにはトップが腹をくくってやらなければならない。
  • 茨木市は北摂の行政の中心。
  • まず市民会館を手がけるべき。 

対談内容

赤字への転落と脱却

福岡市長(以下:市長)
これまでの茨木市は、どういう方向で進んできたのでしょうか。また、今後、どういう方向で進むべきか、アドバイスをいただけると有難いです。

山本元市長(以下:山本氏)
なかなか難しい質問ですね。(笑)

市長:初代の市長からずっと市政に携わってこられた山本市長が、市役所に勤められた時代のお話からお聞かせください。

山本氏:昭和23年1月、一町三村が合併し、茨木市が誕生しました。私が採用されたのは昭和25年4月です。
 当時は戦後間もない中、税制改革がされ、非常に税の徴収が難しい時代でした。今まで、税金がかからない方に、税金がかかるような時代でもあり、「何で税金がかかるんや。」といった不満の声が多く、税の滞納者も多かったです。ですので、税務課にいた私は、ずっと税の徴収に走り回っているような状況でした。
戦後の混乱をひきずり、大なり小なりどこの市町村も赤字を抱えていました。これを受けて政府が、市町村を助けるべく低金利で融資を行おうということで、昭和30年「地方財政再建促進特別措置法」を制定するような時代でした。
 本市の状況はというと、市としての形態を整えるために、木造の新庁舎を建て、市民病院も建築しました。また、次々と赤字を抱えた周囲の村と合併をしたため、赤字が累積していました。「茨木は赤字財政の規模が全国でも10本の指に入る」と言われていました。
 そこで、本市も措置法の恩恵を受けようと、昭和31年に再建団体の指定を受けました。議会でもいろいろ議論はありましたが、何とか議会で可決をいただきました。

椅子に腰掛け、向き合い話す、山本氏と市長

市長:当時、財政再建団体は全国でどれ位の割合で存在したのでしょうか。

山本氏:ほとんどの市町村、大阪府下でも8割ぐらいの市町村は、再建団体でした。

市長:再建までの道のりはどのようなものだったのでしょうか。

山本氏:当時は税収入が1億3千万円ぐらいに対し、赤字が1億7千300万円で返済していくのも大変な状況でありました。
再建には10年(昭和41年赤字財政全額解消)かかりました。私は財政再建当初から終わるまで財政の仕事に携わりました。結局、その後も私は、財政課長、総務部長、助役と、財政運営にずっと関わり続けることになりますが。
 当時、再建の交渉のため、よく国(当時の自治庁)への東京出張をしましたが、当時はまだ新幹線がなかった時代ですから、夜行列車で行き、昼間に仕事をして、また夜行列車で大阪に帰ってくるといった生活でした。気候の良い時は、明け方に夜行列車で東京駅に着いて、9時に自治庁が開くまで皇居前の芝生で寝ていたもんですよ。どんどんと再建計画の修正も加わり、議会に報告しないといけませんし、東京から帰ってきてまた行くような有様でした。旅館で修正した時もありました。
 特に坂井正男(さかいまさお)市長が手腕を振るわれました。あの方がいなければ財政再建ができていなかったと思います。人件費に関してベース・アップ見送りなど赤字克服のため積極的な施策がとられる一方、工場誘致の成果もようやく数字として表れ、人口増による市民税と合わせて、税収も顕著に増えてきました。
 それからは赤字だけは、後生の方が苦しむため、絶対に赤字を出さないように頑張ってきました。借金は累積すると返すのが至難の業です。会社は金儲けの為に一致するが、役所は違います。やはり、トップが腹くくってやってくれないとだめです。事務屋ではできない話です。

椅子に腰掛け向き合って話す、山本氏と市長

首長の姿勢

山本氏:大阪府内でも北摂地区は比較的裕福で、茨木市はやり甲斐がある市であると感じます。市長は最初が大事で、市民から信頼されるということを前提に考えないといけません。今、某知事の記者会見を見ましても、市民の信頼を無くしていますよね。特に我々の時代よりも厳しくなってきている。公私の金の使い方は気をつけてくださいね。
ところで、1ヶ月間、市長を務めてどうですか。

市長:おかげさまで毎日が充実しているのは間違いがなく、いろんな方にお会いしていろんなお話を聞いて、大変勉強になることが多く、非常に有意義な日々を過ごしていると感じております。

椅子に腰掛け、語る市長と、聞いている山本氏

魅力ある街づくりを目指して

市長:昭和25年から働かれて「まちの動き」はどう思われますか?

山本氏:当時は、全くの田園都市。東はほとんど田んぼでした。一番の町の発展は、昭和45年の万博です。昭和40年~45年にかけて開発が進み、10年間でちょうど10万人増えました。毎年1万人ずつ。毎年、小学校、中学校、幼稚園等の施設が必要となって地価がどんどん上がる時代でした。総務部長として土地買収の交渉にも臨みましたが、もたもたしていると、3ヶ月、半年経てば地価が上がってしまう状況でした。何が困るかというと、借金しなくてはならなかったことです。

市長:学校の先生は足りていたのでしょうか。

山本氏:案外、就職希望がありましたが、受けたらどんどん採用されるという時代でした。

市長:万博に向けてまちづくりをしたのでしょうか。

山本氏:そうですね。両駅前の広場も万博のためにできた。バスが通れるように道を作り、両駅前のビルもその時にできたものです。現在懸案となっている市民会館も、市庁舎第一期工事と第二期工事の間に、建設されました。

市長:当時は市民会館を建てるというのは流行だったのでしょうか。

山本氏:市として、ホールを建設することが「希望」であるという時代でした。市民会館が完成したときは感動でした。あとは借金が残りましたが。
昭和55年に完成したごみの焼却炉も巨額でした。重冨敏之市長の時代に高温溶融処理方式のごみ処理施設として、全国で初めて建設されました。確か、総工費が53億でした。続いて私が市長に就任すると、すぐに更新時期がきまして、平成6~8年、3年くらいかかって1基が100億近く、3基で合計300億近くかかりました。

市長:茨木川を緑地にしたのは素晴らしいアイデアだったと感服しておりますが。

山本氏:私の市役所の採用試験のときに旧茨木川跡をどうするべきかという出題がありました。「桜の木を植えて緑地にしたらいい」と書いた覚えがあります。

市長:そのまま実現していますね!

山本氏:ざっと上から下まで5キロメートル、40メートル、20万平方キロメートル。交通の便も去ることながら、市民生活の中でも散歩や、緑地としても、市としては素晴らしい財産です。

市長:市役所前に南北の2つグラウンドがあることは、他市から褒められることがあります。

山本氏:他の市を見たら、まちの中心に一から大きな施設を作ることは大変ですね。 

椅子に腰掛け、向き合い話す、山本氏と市長

市民病院の廃止

市長:市民病院についてお聞きしたいのですが。

山本氏:昭和27年、今の保健医療センターの所に、市民待望の市民病院を建設しました。当時の公立病院は、200ベッド以上でないと採算が合わないという話でした。ところが、市民病院は100床しかなく、やはり累積赤字の増加の一途をたどり、市の財政に重い負担をかけることとなりました。そこで、財政の立て直しを図るため、昭和39年に閉鎖し、民営の茨木中央病院として再出発することになりました。

市長:市民病院があったから赤字になり、財政再建団体になったという話を時々聴くのですが。

山本氏:一因ではありますが必ずしもそうではありません。合併時点で、村の赤字を背負うことになったことが大きな理由です。

市長:病院を廃止するときに反対はなかったのでしょうか。

山本氏:ありました。しかしこれ以上運営すると財政再建ができなくなるということで、病院の形態は残すが民間委託することになりました。老朽化にともなって、新病院(博愛病院)を建てて移転されました。

市長:元市民病院跡地は、再度、病院として積極的に取り組むことはなかったのでしょうか。

山本氏:たまに議会で言われましたが、阪大病院や高槻病院という大きな病院がありますので、北摂地区のベッド数は三島医療圏でオーバーしています。病院を立てるにしても関係の機関との調整も必要ですし、簡単に建てることができませんでした。

椅子に腰掛け、語る市長と、聞いている山本氏

これからのまちづくりについて

市長:茨木は今、教育のレベルが高いと感じますが、教育の分野はどのように歩んできたのでしょうか。

山本氏:どういう内容でレベルが高いかと言われているのかわかりませんが、ずっとそう言われてきました。特に、先代の重冨市長さんが教育長から市長になった方なので、教育の現場の施設整備などに取り組まれました。そんなことからずっと評価を得てきたのではないかと思います。

山本氏:北摂での茨木市は行政の中心です。茨木高校もあり、春日丘高校、中学校も昔から2校あり、税務署、保健所など官庁が茨木にある。

市長:裁判所もありますね。
過去から茨木の評判は変わらないのでしょうか。例えば、茨木は住みやすいまちだとか。

山本氏:大阪と京都の真ん中に位置し、交通の便もいいと、ずっと言われてきました。

市長:昨今大きな所では、松下、東芝、サッポロといった工場が市内から撤退しています。昔は企業がほっといても来るような状況だったのでしょうか。

山本氏:松下や東芝は昭和30年代に誘致しました。だから用地買収などは全部市でしました。当時は田んぼがたくさんあったから誘致できました。

椅子に腰掛けて話す、山本氏

市長時代の苦労について

市長:市長をされているときの一番の苦労は何でしょうか。

山本氏:私が市長になるまでは、毎年15億、20億と税収が伸びていましたから、新しいことは何でもできました。重冨市長時代は本当に良かった時代ですね。しかしながら、私がちょうど市長になったときに土地ブームが終わり(平成4年)、税収も頭打ちで、そこからは下がる一方でした。これまでと同じことをやっていたら赤字が出ることもわかっていたし、「選択」という難しさがありました。切れるものは切っていかないといけないという選択は難しいものでした。それまで新しいことをどんどんやっていたのに、金利を抑制していかなくてはならないという辛さがありました。

市長:いろんなところで嫌われましたか。

山本氏:そうですね。部長は議会で追及されたくないから、あれしたい、これしたい言いますしね。(笑)

市長:最近の財政動向はいかがでしょうか。

山本氏:最近の税収を見ると440億でずっと横ばいで、一番いいときから2割減ですね。人口は増えていますが。

市長:JRや阪急の駅前再開発など、大阪万博(昭和45年)で発展した部分の更新時期を迎えており、いろいろとお金が必要となってきています。

山本氏:阪急の駅前は一番の問題ですね。電気周りから水周りまでガタガタですから。だけどあんまり「よっしゃわかった!」と言ってやっていると重い負担が全部市にかかってくる。

市長:里山地域にも課題がいくつもあります。高齢化と過疎化、農業の担い手不足。今はまだ空き家はないものの、じきに増えてくるのではないかと感じています。

山本氏:若い人は便利なまちに住むからね。子どもができたら「やっぱり山の学校に行く」とはならないからね。もし山に住んでも、家族が集落の習慣に馴染むかどうかという問題もあるでしょう。

市長:これからの茨木について何かご意見をいただけますでしょうか。

山本氏:難しい質問ですね。
子どもが増えなかったら、市というよりも国の将来が大変ですから、やはり子育ては第一、そしてできれば年寄りも大事にしていただければ。市としては、インフラ整備の問題も、金さえあればいくらでもやることはある。金を抑制しながら、今は市民会館をまず考えて欲しい。できたら4年間のうちに基本計画だけはやって欲しい。

市長:それは間違いなくやります。

山本氏:二期目には現場が動いているようなスケジュールでいってほしいですね。

市長:了解しました。今後とも引き続きご指導をよろしくお願いします。本日はありがとうございました。

立ち上がり握手を交わす、山本氏と市長