広報いばらき

川端康成と茨木

日本人初のノーベル文学賞受賞作家で本市名誉市民である川端康成と茨木とのかかわりについて紹介します。問合先、川端康成文学館 電話625-5978

私のふるさと

 川端康成が茨木について書いた文章は、決して多いとは言えません。そのなかで、もっともまとまった内容を持つのが「私のふるさと」です。

 「郷里あるいは出身地がどこかと聞かれると、私はいつも次ぎのように答えた。東海道線、京都・大阪の中間の茨木駅から、北へ一里半ばかりはいった、小さい農村、と」と書き出されるこの随筆は、「週刊サンケイ」昭和38年(1963年)7月15日号に掲載されました。茨木の地理的な紹介に始まり、人から伝え聞いた執筆当時の宿久庄の様子、生誕の地が天満であること、父が早逝し祖父母とともに宿久庄で暮らすようになったこと、祖父の死とともに「ふるさと」の村を離れて50年がたったことへの感慨が綴られています。

 昭和57年(1982年)刊行の『川端康成全集』(新潮社)第33巻にも収載されていた「私のふるさと」ですが、平成28年(2016年)になって自筆原稿が発見され、推敲の過程で大きく削られた部分のあったことが明らかになりました。祖父の五十年忌に当たって、周囲から法事をすすめられたものの、「祖父、また祖母や父母や姉は、私のなかのほかにはいない。私の生きているのが、なによりも供養である。(中略)私の家には仏壇も位牌もない。それらは私のなかにある。墓に死人はいない。墓参や法事の弱さには、まだ落ちたくない」という内容からは、康成の亡き家族に寄せる想い、さらには死生観や宗教観までがうかがえます。

 「私のふるさと」は、「親のない子の私をいたわってくれた『ふるさと』はなつかしい」と懐郷の思いが綴られる一方で、「無頼浮浪の私は旅のところどころにも『ふるさと』を感じる」「人間のふるさとはどこにもなく、世界のどこにでもあるかのようだ」として、「ふるさととはなんであろうか」と読者に問いかけるかたちで結ばれます。康成にとって「ふるさと」とは何だったのか、今改めて考えたいテーマです。

シンポジウム「文化探訪・川端康成とふるさと茨木」
市制施行70周年関連イベント

とき、11月25日(日曜日)、午後1時30分〜5時、ところ、クリエイトセンター センターホール、問合先、市観光協会 電話645-2020