広報いばらき

川端康成と茨木

川端康成と茨木

日本人初のノーベル文学賞受賞作家で本市名誉市民である川端康成と茨木とのかかわりについて紹介します。問合先、川端康成文学館 電話625-5978

十六歳の日記

 3歳までに相次いで父母を失った康成でしたが、身内の不幸はそれだけでは終わりませんでした。祖母のカネは7歳のときに、母方の叔母の家に引き取られていた姉の芳子も、康成が10歳のときに亡くなってしまいます。芳子とは両親の死後二度顔を合わせただけで、その姿の特徴を何一つ思い出すことができなかった、と後に康成は回想しています。

 康成にただ一人残されたのは、祖父の三八郎でした。昭和13年(1938年)に発表された随想「処女作を書いた頃」には、「父母の顔も覚えていない私には、この祖父が肉親のすべてだった。今の年になっても、祖父に死なれては困るというような少年の夢を、私はよく見る」とあり、三八郎へ寄せる思いには特別なものがあったことがうかがえます。

 三八郎が亡くなったのは、大正3年(1914年)5月24日のことでした。その最期を看取った日々の記録が小説「十六歳の日記」です。病み衰えていく祖父の姿と、それを時に哀憐と不安をもって、時に嫌悪を隠さず見つめる自らの心情とをリアルに描き出す文章は、これが数え年16歳の少年のものかと、読む者を驚かせます。

 祖父の看取りを続けながら、康成は「今日自分は切に小説の傑作が祖父のモデルで出来るをうたがわない。一つ書いて中央公論に出して見ようかと思う」と日記に綴っています。その言葉通り、肉親の死を見つめる日々という異色の青春を描いた傑作が生み出されたのでした。「十六歳の日記」は、川端康成文学館から刊行の作品集「川端康成と茨木」で、読むことができます。

 また、市では現在、「川端康成青春文学賞」の作品を募集中ですが(「特集1 次なる茨木へ。市制施行70周年」ページ参照)、その大賞作品が掲載される雑誌こそ、「中央公論」です。およそ100年前に康成が綴った野心を実現することになるのは、どんな傑作でしょうか。皆さんもぜひ、「一つ書いて」みてください。