広報いばらき

市史編さん室だより

費用の記載がない場合は参加無料。定員・申込などの記載がない場合は事前申込不要または当日直接会場へ。

其ノ28

問合先、市史編さん室 電話622-2184

消えた寺内町 郡山

 明治時代に作られた土地の区画を示す地籍図からは、さまざまなことを読みとることができます。

 郡山の地籍図をみると、東西に数本の道が通り、道と道の間は短冊状に区切られているのがわかります(「新修茨木市史」第8巻史料編地理)。これは、住居や商店などが多い町場などに見られる土地区画です。では郡山にはどのような町があったのでしょうか。

 富田の教行寺の由緒書に、富田から1里ほど西の「摂州郡山ト云所ニ寺内ヲ取立」とあります。この「寺内」とは戦国時代、外敵から住民を守るため周囲に堀や土塁をめぐらした、寺院を中心とした町のことです。天文16年(1547年)に、郡山に御堂を建てたという記録も残っていることから、この頃に郡山が寺内町になったと思われます。

 寺内町は貝塚や富田林、とくに石山本願寺(のちに大阪城となる)などが有名で、商工業者が集まり、城下町に近い機能を持っていました。そんな寺内町が、かつてこの茨木にもあったのです。

 交通の要衝として賑わっていた郡山寺内町は、永禄11年(1568年)9月に、将軍足利義昭を奉じて上洛した織田信長の軍勢に解体されてしまいます。郡山寺内町の記事が史料に見えるのは、わずかに21年間のことでした。