広報いばらき

市史編さん室だより

費用の記載がない場合は参加無料。定員・申込などの記載がない場合は事前申込不要または当日直接会場へ。

其ノ22

 問合先、市史編さん室 電話622-2184

雲居希膺と作兵衛

 大阪城が落城し、茨木城が取り壊されて間もない頃のことです。禅宗の僧で、国宝松島瑞巌寺中興の祖とされる雲居希膺は、伊達政宗に請われ奥州に赴くまでの3年間、箕面勝尾寺に住んでいました。

 ある日、茨木城下で托鉢に行き暮れた希膺は、梅林寺で一晩の宿を請います。そこに居合わせたのが、この地の代官をしていた山本作兵衛という人です。作兵衛は、ふいに現れた希膺の話に引き込まれ、とうとう自分の家に招いて夜更けまで話し込みます。そして禅宗に深く帰依した作兵衛は、希膺のために阿誰庵という庵を建て、これが後に希膺を開祖とする本源寺(現在の大手町)となります。

 戦国の余韻さめやらぬ茨木城下で、天下の名僧を招き、一寺を建立するだけの力を持っていた山本作兵衛とは一体、どのような人物だったのでしょうか。

 山本家の系図(本源寺蔵)によれば、作兵衛の先祖は上総国望陀郡蔵波村(現在の千葉県袖ケ浦市)の出身で、享禄・天文の頃(1530年前後)には茨木に居住していたようです。それから数十年後、どのような経緯か、作兵衛は「神足城主永井直清の代官」となっています。おそらく地元をよく知る有力者に、領地を管理させるための代官に任じられたのでしょう。

 なお、茨木の郡山に「山本」という旧家があったそうですが、系図には作兵衛の叔父が分家をしたとあります。

 400年前の茨木には、希膺のような第一級の文化人をひきつける魅力があり、作兵衛のような知識人が幾人もいたのではないでしょうか。(新修茨木市史第9巻美術工芸 147ページ)